内モンゴルへ行ってきた話⑦
「内モンゴル」シリーズ、前回の記事に引き続きオボについて書いていきますよー!
今回はオボに纏わる祭礼について、そのルーツに迫ります。
では、前回のおさらいから。
オボとは
・内モンゴルの丘の上によくみられる「石やレンガを積み上げて作った建造物」であり、「宗教的な意味のある旗や布・紙で飾りつけされている」ことで、「祭壇として機能しているもの」。
・信仰対象①としてのオボと境界表示としてのオボ②がある。
→②後者は信仰の対象ではなく、その構造から日本の山頂付近で見受けられるケルンと同様の意味を持つものと推測できる。
こんなものでしたね。
現在のオボ信仰のルーツとなった匈奴とは何なのか、調べてみました。
(前回同様、黒字で引用文・青字で解説をしていきます!)
匈奴とは
内蒙古農牧学院、李晶「現代の蒙古と日本にみられる原始宗教の残影−「オボ」と神社の対比研究への覚書−」(日本比較文化学会編「日本比較文化学会 比較文化研究」第38号別刷、1998)によれば、モンゴルの居住地であるモンゴル高原からゴビにかけての地域にはかつて匈奴、鮮卑、柔然、契丹などの遊牧民族が活躍し、モンゴル族の祖先とおぼしき人々は唐の時代に登場する「蒙兀」だという。
しかしながら、モンゴル民族の文化的ルーツはそれよりさらに古い時代に遡ると考えられえ、資料の残る中でオボ信仰の元となる祭祀をおこなっていた民族は先に挙げた匈奴であると「近現代内モンゴル東武地域の変容とオボー」にて吉田も指摘をしている。
(「アジア地域文化学の構築−21世紀COEプログラム研究集成−」p256)
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つまるところ、現存する文献の中で最も古いモンゴル民族のルーツが匈奴というわけですね。
加えて、オボ信仰に関する文献も匈奴が最も古いとされています。
ではどれくらい古いのか、以下の記述より読み取ってみましょう。
匈奴という民族が記録上現れたのは紀元前221年、秦の始皇帝が死による中国統一崩壊後の戦国時代中期、前三一八年、韓、魏、趙、燕、斉の五ヶ国が連合して秦を攻めた(「史記」秦本記)あたりで、匈奴は五ヶ国側に呼応して秦と戦い、北に敗走したようであるが、この頃から「匈奴」が中国緖資料に散見されるようになる。
[i] :戎
中国からみて西北の異民族を指す語。「史記」匈奴列伝において堯・舜よりも前の時代から北方の番地に移住していたと記載され、酋長の歌謡集「詩経」において湯牧の民として描かれていることから周代には洛水の北方から今日の内モンゴル地区にかけて散居していたことが確認されている。
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活動の規模からみて、遊牧騎馬民族としての性格もこの時期には確立していたと考えられます。
遊牧騎馬民族の主だった性質は奇襲、略奪、他民族の吸収が挙げられます。
(結構残忍な気質です。反抗的な民族に対しては、奇襲の際に荷車の車輪より大きい人間は殺し、支配が効く年齢の者だけ奴隷として連れ去ったという伝承も残っています。)