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内モンゴルへ行ってきた話⑨

モンゴル 中国 旅行

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内モンゴル」シリーズ、9稿目。
さっそく前回のおさらいから!

 

 

・海外の匈奴研究

①先祖代々生粋の騎馬民族(モンゴリア土着の民族)。

 

②先祖代々生粋の騎馬民族を騎馬戦法で追い出したスキタイ人の戦法を取り込み、自分たちの得意分野(鋳銅技術)と組み合わせて進出してきたアーリア人(西方系民族)

 

③西方の最新鋭の技術を学んだ先祖代々生粋の騎馬民族(モンゴリア土着の民族)。

 

①②③より、匈奴は「騎馬戦法」をもって、「当時最先端の鋳造技術」を駆使し勢力を拡大していった民族であると推測できる。

 

・日本の匈奴研究

外モンゴルに遊牧していた民が逸早くスキタイの騎馬戦法を習得し、南下して内モンゴル地区の半農半牧民を征服ないしは悦服して、匈奴と呼ばれる1つの政治勢力を結集したもの

 

・他国と貿易を行っていた。

 

こんな感じでしたね。

今回は匈奴の祭祀について、論文からの抜粋になります。

これまで書いてきました匈奴とオボが、遂に繋がりますよ!

 

 

匈奴の祭祀

匈奴の祭祀について、「史記匈奴列伝には、「毎年、正月諸長は単于庭に集まって小集会を開いてお祭りをする。五月には籠城で大集会を開いて、その先祖、天地、鬼神のお祭りをする。秋、馬の肥える季節には蹛林にて大集会を催し、人や家畜の数を調べる。」とある。
 
こうした記録は、後の南匈奴についても同様で、「後漢書南匈奴伝には、「匈奴の風習では、〔一年に〕三回の竜祠があって、正月、五月、九月の戊日に天神を祀る。南匈奴が〔漢に〕内付してからは、漢の天子も一緒にお祭りした。その際、諸氏族が集合して国事を議したのである。〔彼らは〕馬やラクダを〔競〕争させて楽しんだ。」と伝えられている。
(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.106-107)
 
「籠城」・「竜祠」これ非常に重要なキーワードです。
匈奴の祭りは日本同様、集会(政治)を兼ねていたことが解ります。
漢の大使を招いていたあたり、外交にも長けていたのかと考えられますね。
祭りの内容は騎馬民族らしい内容ですね。
では、核心に迫りますよ!
 
 
匈奴研究の第一人者、江上波夫の研究によればこの籠城や竜祠といわれるものが、自然の樹木を立てたりした現代におけるオボの祭壇のようなもので、その周囲を廻って祭祀を行うのであるという。
(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」p107)
 
遂に出ました(笑)
「籠城」・「竜祠」これがオボのルーツと言われています。
 
また、昔のオボは現在のような円筒状に石を積み上げたような形ではなく、日本の磐座(いわくら)[i]に近いものだったとする研究もありました。
 

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[i] :磐座(椙山林継)
そこに神を招いて祭りをした岩石。その存在は聖域とされた。石神、磐境とともに石に対する信仰の一つ。祭儀が繰り返されることにより、その石自体も神聖な石として祭られるようになる。
 
各地に広く信仰された形跡があり、祭礼に関係するものも多い。降臨石、腰掛石、影向石、神の足形石などさまざまな名で呼ばれ、大きさも形も各種各様である。縄文時代にも長野県尖石とか、東北地方の鮭石などは信仰の対象となっていたと思われるが、弥生時代の銅鐸埋納地以降、とくに古墳時代には岩石の側で祭祀を行った。
 
鏡、玉、武器や土器などが放置されたまま今日に残されたものが数多く発見されている。
 
神社の祭礼でも、祭神ゆかりの石として、その場に神興を据え御旅所とし、献饌している例は現在でも多い。また磐座神社などと称されるもので本殿内あるいは背後にまつってあり、社殿成立以前にはこの石を中心に祭りが行われていたと思われる神社もある。(「神道事典」pp.176-177)
 
 
磐座についても、いつの日か書いてみたいものですが・・・いつになることやら()
因みに、オボのルーツを山岳信仰や巨石に対するアニミズム的信仰とした論文もちらほら見かけましたね。
 
 
では、このオボのルーツで行われた祭祀の目的は如何なるものなのか、少しだけ触れます。
 

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この祭祀の意味合いとして重要となるのが、先に挙げた単于位のシステムと支配下である諸部族の独自の信仰のすり合わせである。
 
北アジアを統合し匈奴以外の部族が傘下に加わった匈奴帝国において、組み込まれた諸部族が各々に信仰する部族神(=祖先神)が元来、匈奴が信仰する祖先神(「漢書匈奴伝より、単于の正式名称である撐犁孤塗の姓は攣鞮。世襲制ゆえに攣鞮氏が祖先神となる。)とは異なり、恒久的統治の障害となった。
 
 
これは日本における氏神信仰[i]に近いものである。そのため単于自らが諸部族の神々よりも攣鞮氏が上位であることを示す必要が生じた。
 
つまりはその関係性の確認の場として籠城において「その祖先、天地、鬼神のお祭り」を行わせる大会が催されたということである。
 
大会において匈奴に服属する諸長に攣鞮氏を祀らせることによって部族神を単于に従属させ、またこの称号を神格化することで天神と匈奴のすべての民を結ぶ媒体であり全匈奴社会の統一体の具現化であることを示したのだ。
(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.132-134)
 
 
 
[i] :氏神(岩井洋)
本来は古代社会で氏を名乗る氏族(あるいは氏人)が祀った祖先神または守護神のことであるが、氏神を祀る集団の歴史的変遷により、現在では鎮守神産土神(うぶずなかみ)のいずれもが氏神と呼ばれることが多い。
 
中世の武士団が荘園での在地性を強化していく過程で、その土地の神を氏神として祀るようになり、氏神を祀る集団の性格も血縁関係から地縁関係へと展開していき、土地の神である産土神氏神が混同されるようになった。
 
また同じ頃に、もともとは特定の土地・建造物を守護するために祀られた鎮守神が荘園内に勧請されることにより、氏神鎮守神も混同されるに至った。現在では、氏神をおおむね三つの類型に分けることができる。
 
第一は村氏神というべきもので、地域内の住民全員が氏子としてその祭りに奉仕するものである。第二は屋敷氏神、家氏神と呼ばれるもので、各自の屋敷内の祠に祀っているものである。第三はイッケ氏神、マキ氏神などと呼ばれるもので、一と二の中間に位置するマキやイッケと呼ばれる同族の手によって祀られるものである。(「神道事典」p83)
 
簡単に要約すると
吸収・合併・略奪の中で、纏まりのない部族のサラダボウル状態の多部族国家となった匈奴では、
匈奴の先祖(が死んで神になったもの)」に「各々の部族で祀っていた神やそれに類するもの(精霊だったり、動物だったり)」を従属させることで、主従関係を明確化・絶対化し、国として統一化したという事です。
 
 
今回はこのあたりで!
次回はこのシステムについて、もう少し詳しく書きますね。
 
('ω')ノお楽しみに!