内モンゴルへ行ってきた話⑩

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内モンゴル」シリーズ、次回が一旦最終回となります。

前回はオボのルーツに触れましたね。

 

 

今回はより詳しくオボとの関係性について掘り下げます。

 

では、早速おさらい!

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オボのルーツ

 

匈奴の祭祀について、「史記匈奴列伝には、「毎年、正月諸長は単于庭に集まって小集会を開いてお祭りをする。五月には籠城で大集会を開いて、その先祖、天地、鬼神のお祭りをする。秋、馬の肥える季節には蹛林にて大集会を催し、人や家畜の数を調べる。」とある。

 

こうした記録は、後の南匈奴についても同様で、「後漢書南匈奴伝には、「匈奴の風習では、〔一年に〕三回の竜祠があって、正月、五月、九月の戊日に天神を祀る。南匈奴が〔漢に〕内付してからは、漢の天子も一緒にお祭りした。その際、諸氏族が集合して国事を議したのである。〔彼らは〕馬やラクダを〔競〕争させて楽しんだ。」と伝えられている。

(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.106-107)

 

 

匈奴研究の第一人者、江上波夫の研究によればこの籠城や竜祠といわれるものが、自然の樹木を立てたりした現代におけるオボの祭壇のようなもので、その周囲を廻って祭祀を行うのであるという。

(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」p107)

 

 

また、この祭祀において行われていた政治的動きについても触れましたね。

 

吸収・合併・略奪の中で、纏まりのない部族のサラダボウル状態の多部族国家となった匈奴では、

匈奴の先祖(が死んで神になったもの)」に「各々の部族で祀っていた神やそれに類するもの(精霊だったり、動物だったり)」を従属させることで、主従関係を明確化・絶対化し、国として統一化した。

 

 

こんな感じでしたね。

いやはや、なんというシャーマン〇ング的な(笑)

 

更に詳しく、その後の影響について記述された論文を見つけたので書いていきますね。

 

 

 

祭祀の影響

その後、匈奴における単于の地位は守護神と化した先代単于を継承するものであるという、ただその一点で匈奴諸部族に対する権威を保っていた。

 

言い換えれば単于の地位はすでに申請を付加された先代単于の霊を匈奴社会の守護霊として祀り、同時に先の共同体祭祀と結合することによって、発展してきたといえる。

 

先代単于の霊は、当代の単于の祖霊というよりも、全遊牧社会の守護霊として匈奴社会を構築するすべての人々に意識されていたといえよう。

(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.135-138)

 

 

守護霊や精霊を従属させた後は、なんと吸収し統一化してしまったんですね。

(これまたなんというグレートスピリッツ)

 

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信仰対象の統一化は匈奴社会の統一化を促し、アイデンティティとなっています。

オボによって祀られる神はこのようにして、様々な神・精霊を取り込み多様な顔を持つ存在へと変貌していきました。

 

 

オボ研究者の後藤富雄は、オボによって祀られるこの神をヌトゥックの神と定義付けしました。

これについても纏めた論文を見つけたので書いておきます。

 

 

 

ヌトゥックの神について

 

吉田純一はこの社会とオボにより祀られるものの関係を後藤富男のヌトゥックの神(オボにより祭られる神の総称)についての記述を引用し説明しており、

「ある経済的・社会的な集団のつねに利用収益する場所」とし、「土地の神は、このような土地と人間との結びつきから生まれたもの」「ヌトゥックの神」である。

 

故にそれは「抽象的な土地一般の神ではなく」、「目に見える某なる山岳の神、固有の名を持つ湖水の神、現に自分の家畜を放牧している草原の神」であり、各「土地の『持ち主』として、その場所における豊饒を支配する」ものであり、各「ヌトゥックごとに存在しなくてはならない。」ということは、「ヌトゥックを占拠している集団ごとに相似なる個々の土地神がある」ことになる。

 

 

本文にもありますが、つまりは「オボの置かれている土地一つ一つに存在する土地神であり、支配する土地に対し豊饒をも支配する」存在であるという事ですね。

 

 

故に「その神はそれら大小の集団の守護神的な性格をおび」、「オボーは「ヌトゥック」を共通にする集団のものであった」から、その共通の神に奉仕しこれを祭ることで同一の集団の成員たるの自覚を促し、その紐帯を一層鞏化した」と、共通する神が集団における一種の拘束力・アイデンティティをもたらす存在であることを示唆している。

 

 

これまで書いてきた「信仰対象の統一化」=「匈奴社会の統一化・民族としてのアイデンティティ」の総括ですね。

またこれは、絶対的な存在による社会的反乱への抑止にもなります。

 

 

これについては、ナランビリゲも論文「モンゴル族のオボー祭祀にみる帰属意識内モンゴル自治区オルドス市オトク前旗の事例から−」にて同様の見解を述べており、放牧民として成り立つための、その集団を凝集させる絆をオボー祭祀としたうえで「オボー祭祀は共同体意識の生成の文化的土台となり、特定のオボーを特定の人々が祭って、その特定のオボーを祭る集団の一員だという意識を持っていたことが明らかである。」と纏めている。

 

 

オボは、祭祀を行う場であるのと同時に、祭祀を通して集団的な存在を再認識させる存在であったということです。

 

こうしてアニミズム的宗教観を個々の部族ごとに育んできた集団は、匈奴の時代に神を統一化することで国を形成し、祭祀を行うことで集団の繋がりを再認識させ、そのシンボルとしてオボは存在してきました。

 

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仏教流入時にも、このシステムは使用され(簡単に言えば、統合した神を仏に挿げ替えたという事です。)ました。

ラマ僧による祭祀は、これを色濃く表していると考えられます。

 

 

 

 

今回はここまでとなります。

内モンゴルの民族的ルーツからオボーのルーツを知り、現在のオボがどのような意味を持つものとなったのかを知る試みでしたが少しはお伝えできたでしょうか。

 

 

次回は現在に残るオボー祭祀について書きたいと思います。

('ω')ノ最終回だよ!お楽しみに!、