内モンゴルへ行ってきた話⑧

f:id:c11quadrak:20170312000551j:plain

内モンゴル」シリーズ、第8弾。オボ編!

早速、前回のおさらい!

 

 

 

匈奴とは

 

・現存する文献の中で最も古いモンゴル民族のルーツ。

 

・オボ信仰に関する文献も匈奴が最も古い民族。

 

・紀元前221年には中国の王朝にも、匈奴は脅威的勢力として認識されていた。

 

・活動の規模からみて、遊牧騎馬民族としての性格もこの時期には確立していた。

(遊牧騎馬民族の主だった性質は奇襲、略奪、他民族の吸収が挙げられます。)

 

匈奴は急速に変化・拡大する集団の統制に匈奴は宗教(信仰)を上手く利用した。

 

こんな感じでしたね。

 

前回の終わりではオボについて触れるところで終わりましたが、もう少し騎馬民族について知ることで信仰のルーツがつかみやすいと思います。

 

なので今回は・・・匈奴騎馬民族としてのルーツに関する記述を幾つか見つけたので補足しますね。

 

 

匈奴研究より抜粋

 
旧ソ連邦の考古学者コズロフは、外モンゴルのノイン・ウラ[i]に埋葬された遺骨より、匈奴人をアーリア人の一種と見て西方からの外来民族であると推測した。
 
ちなみに、騎馬戦法を編み出した民族は、前7世紀頃より先住民であった遊牧騎馬民、キンメリア人を追い出し黒海周辺で活躍したスキタイ人であり(宮脇淳子、「モンゴルの歴史−遊牧民の誕生からモンゴル国まで−」pp.8-9)匈奴はこのスキタイ人の騎馬戦法を導入し自らがもつ高い鋳銅技術を駆使したアーリア人というのが彼の見解である。
 
この他にも、モンゴリアに侵入した西方系民族とする説に対して、周時代および春秋戦国時代の戎と結びつけて、西方からの冶金技術を身につけて雄飛したモンゴリア土着の民族を匈奴とする説もある。
 
[i] :ノイン・ウラ
1924年、10月よりコズロフを隊長とするソ連科学アカデミーの考古隊によって発掘された、今のモンゴル国の首都ウランバートルの北方約100キロメートルの地点にあるノヨン山地の墳墓群のことである。ノイン・ウラとは王侯の山を意味し、そこに埋蔵されたのは匈奴の王侯貴族であった。単于の墓といわれる第6号墳から出土した漢字の銘のある漆耳杯から、匈奴の中興期であった後一世期に造営されたものと考えられる。(「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.87-90)
 
海外の匈奴研究です。
 
纏めると
 
①先祖代々生粋の騎馬民族(モンゴリア土着の民族)。
 
②先祖代々生粋の騎馬民族を騎馬戦法で追い出したスキタイ人の戦法を取り込み、自分たちの得意分野(鋳銅技術)と組み合わせて進出してきたアーリア人(西方系民族)
 
③西方の最新鋭の技術を学んだ先祖代々生粋の騎馬民族(モンゴリア土着の民族)。
 
ということになりますね。
 
①③は文献に沿った、アニミズム的価値観が根強く残っているのも頷ける説だと思います。
②に関しては、前説に比べ科学的根拠は強い説ですが歴史的根拠に希薄なところがあります。
私的には③の説が有力に感じます。
 

f:id:c11quadrak:20170312000640j:plain

 
共通している点で言えば、匈奴は「騎馬戦法」をもって、「当時最先端の鋳造技術」を駆使し勢力を拡大していった民族であるというところでしょう。
 
先に進めます。
 
 
これらの説を受け、推定の域を脱しないとしながらも民俗学者、沢田勲は「外モンゴルに遊牧していた民が逸早くスキタイの騎馬戦法を習得し、南下して内モンゴル地区の半農半牧民を征服ないしは悦服して、匈奴と呼ばれる1つの政治勢力を結集したものと思われる。」と纏めている。
(沢田勲、「匈奴-古代遊牧国家の興亡-東方選書31」pp.6-9)
 
実のところ、前回の記事はこの説を軸に書いています。
というのも、騎馬民族の特徴が顕著に表れ、複数の民族からなる集合体というのが、今後語りますオボによる集団統治に上手くかみ合うからです。
 
以下、匈奴についての数少ない記録の一文です。
 
史記匈奴列伝によれば「匈奴は北の蛮地に居住し、畜類を牧するために移り住む。(中略)水と草を求めて移動して暮らし、城郭(都市)や固定家屋や耕作地はないが、それぞれ割り当ての土地はある。文字はなく口頭で約束をする。
 
(中略)習俗として諱の習慣(人の本名を口にしたり書いたりすることを避ける)はなく、姓も字もない。」とある。(宮脇淳子、「モンゴルの歴史−遊牧民の誕生からモンゴル国まで−」pp.14-15)
 
しかしながら、耕作地に関してはノイン・ウラ墳墓からの出土品や「漢書」の記述などから少なくとも冒頓の時代から存在したことが確認されている。
 
また同様に、ノイン・ウラ墳墓からの出土品(中国製の絹や錦。中には「新神霊広成寿万年」という漢字が織りなされている錦もあった。)から彼らが南下し中国と貿易を行っていたことも明らかとなり、当初考えられていた完全自給自足型の放牧民の生活とは異なるものであったと推測できる。
宮脇淳子、「モンゴルの歴史−遊牧民の誕生からモンゴル国まで−」pp.23-24)
 
特記すべきは、貿易を行っていたということ。
経済面では政治的にもかなりハイレベルで統制が取れていたと推測できます。
(調べるまでは、匈奴≒山賊の類かなーなんて思っていたのですが・・・)
 

f:id:c11quadrak:20170312000723j:plain

 
今回はこのあたりで!
次回は遂に・ようやくオボのルーツに触れます。
 
お楽しみに('ω')ノ